とびしま海道
5月24日
今日は疲れの取れた母も一緒にHさんの運転でとびしま海道をドライブ
海道を走る前に音戸の瀬戸へ立ち寄りました
音戸の瀬戸は、広島県呉市にある本州と倉橋島の間に存在する海峡のことである。
幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4ノットと潮流が早く、狭い所を広島市と松山市を結ぶ定期船など1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域である。
この海峡は平安時代に日宋貿易の航路として、1167年に平清盛が開削したといわれている。
一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという伝説がある ウィキペディア
瀬戸内の島々や音戸の瀬戸 倉橋島を結ぶ音戸大橋と第二音戸大橋も眺められる高烏台公園まで上っていくと
ここから扇で夕日を招き返したといわれる清盛の銅像がたっていました
楠の花が盛りでした
本土と安芸灘の7つの島を7つの橋で結ぶ「とびしま海道」へ
安芸灘大橋を渡り下蒲刈島へ渡ってすぐの白崎園からの安芸灘大橋
そして上蒲刈島 豊島へと渡って大崎下島へ
豊島と大崎下島を繋ぐ豊浜大橋
大崎下島の御手洗地区で食事
穴子重が人気の海鮮料理みたらい脇坂屋へ
食後は街を散策
あいにく火曜日は定休日でどこも入ることができませんでしたが
親切なおじいさんが外からいろいろ案内してくださいました
御手洗地区は、江戸時代以降、潮待ち、風待ちの港町として賑わった歴史があり、
江戸後期から昭和初期の建物が多く残り、重要伝統的建造物群保存地区となっているところです
高灯籠
住吉神社付近
七卿落ち遺跡
幕末の動乱期、公武合体派によるクーデターで京都を追われた討幕派の公卿のうち、
三条実美など七卿が長州に落ち延びたいわゆる「七卿落ち」 ここ竹原屋を宿とした
若胡子屋跡(わかえびすやあと)
若胡子屋は1724年に広島藩から免許を受けた御手洗で最初で最大の待合茶屋で多くの遊女が集っていた
天満宮 菅公の井戸
御手洗の地名は、一説に菅原道真公が太宰府に流される途中で立ち寄り、井戸で手を洗ったところから名付けられたそうです
乙女座
昭和12年に建てられた劇場で当時はハイカラな建物でした。
昭和30年代まで映画館として使われていました
満舟寺
立派な石垣
乱れ築きという手法で、戦国時代に特徴的な「野石積み」
豊臣秀吉が四国攻略の際、加藤清正に命じて築造させたという伝承がある
亀趺墓
台座が亀の形をしている珍しい墓で、満舟寺には江戸時代中期に建てられた2基の墓が現存
瀬戸内の島々はみかんの産地 みかん畑が広がっていましたがほとんど終わりかけ
花が咲いている木も
御手洗の街並み
このさき平羅島 中ノ島 そして愛媛県の岡村島へと続くのですが私たちはここで引き返し帰路につきました
中の瀬戸大橋と中ノ島 岡村大橋
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今日は疲れの取れた母も一緒にHさんの運転でとびしま海道をドライブ
海道を走る前に音戸の瀬戸へ立ち寄りました
音戸の瀬戸は、広島県呉市にある本州と倉橋島の間に存在する海峡のことである。
幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4ノットと潮流が早く、狭い所を広島市と松山市を結ぶ定期船など1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域である。
この海峡は平安時代に日宋貿易の航路として、1167年に平清盛が開削したといわれている。
一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという伝説がある ウィキペディア
瀬戸内の島々や音戸の瀬戸 倉橋島を結ぶ音戸大橋と第二音戸大橋も眺められる高烏台公園まで上っていくと
ここから扇で夕日を招き返したといわれる清盛の銅像がたっていました
楠の花が盛りでした
本土と安芸灘の7つの島を7つの橋で結ぶ「とびしま海道」へ
安芸灘大橋を渡り下蒲刈島へ渡ってすぐの白崎園からの安芸灘大橋
そして上蒲刈島 豊島へと渡って大崎下島へ
豊島と大崎下島を繋ぐ豊浜大橋
大崎下島の御手洗地区で食事
穴子重が人気の海鮮料理みたらい脇坂屋へ
食後は街を散策
あいにく火曜日は定休日でどこも入ることができませんでしたが
親切なおじいさんが外からいろいろ案内してくださいました
御手洗地区は、江戸時代以降、潮待ち、風待ちの港町として賑わった歴史があり、
江戸後期から昭和初期の建物が多く残り、重要伝統的建造物群保存地区となっているところです
高灯籠
住吉神社付近
七卿落ち遺跡
幕末の動乱期、公武合体派によるクーデターで京都を追われた討幕派の公卿のうち、
三条実美など七卿が長州に落ち延びたいわゆる「七卿落ち」 ここ竹原屋を宿とした
若胡子屋跡(わかえびすやあと)
若胡子屋は1724年に広島藩から免許を受けた御手洗で最初で最大の待合茶屋で多くの遊女が集っていた
天満宮 菅公の井戸
御手洗の地名は、一説に菅原道真公が太宰府に流される途中で立ち寄り、井戸で手を洗ったところから名付けられたそうです
乙女座
昭和12年に建てられた劇場で当時はハイカラな建物でした。
昭和30年代まで映画館として使われていました
満舟寺
立派な石垣
乱れ築きという手法で、戦国時代に特徴的な「野石積み」
豊臣秀吉が四国攻略の際、加藤清正に命じて築造させたという伝承がある
亀趺墓
台座が亀の形をしている珍しい墓で、満舟寺には江戸時代中期に建てられた2基の墓が現存
瀬戸内の島々はみかんの産地 みかん畑が広がっていましたがほとんど終わりかけ
花が咲いている木も
御手洗の街並み
このさき平羅島 中ノ島 そして愛媛県の岡村島へと続くのですが私たちはここで引き返し帰路につきました
中の瀬戸大橋と中ノ島 岡村大橋
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by sakurasou21
| 2016-05-24 22:53
| 旅
|
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